捨てる神あれば、拾う神あり。その心は?
かつて、僕はこの言葉を誤解していた。
「捨てる神」つまり自分を見捨てる者がいる。まぁ当たり前だ。それは自分という存在が神にとって不必要な存在か、それ以下になり下がった時に生じる。
社長「君、もう来なくていいから」
な感じのあれである。
一方「拾う神」、自分を拾う者もいるということ。これも当たり前。先とは対照的に、自分という存在を必要としているからこそ拾ってくれる。
僕の誤解釈はこうだ。
「ま、あいつは捨てる神だし、拾う神じゃなかったってだけだ。だから気にしなくてもいいや」
と、ある種励ましの言葉として捉えていた。
これは半分正解で、半分間違い。
神とは
人間だ。「神」は神ではなく「人間」なのだ。
つまり自分の都合を最優先にする生き物である。その都合に自分が合致して初めて、その者は自分にとっての「拾う神」となる。
小中学生に勉強を教えてくれる人を求めている企業に、ちゃらんぽらんな頭脳を持った人間が応募しても、その求人を出した企業は絶対に拾う神にはなり得ない。
だけど、その神を拾う神にする方法がある。
もう分かっただろう。
自分を鍛えること。それしかない。
もう一つの大事なもの
拾う神に拾ってもらうために必要なものだ。何だろうか?
それは、拾う神が拾う神であると自分が認識すること。
中には悪事に利用するものも一定数いるもので、コインロッカーの紙袋を運ぶだけで10万円!とかいうのもなくはない(古い?)。
そういった悪い人間の差し伸べる手を無視して、ちゃんとした拾う神の差し伸べる手を自分が拾わないといけない。これが一番重要。
自分を鍛え、拾う神を見分けられる観察眼を持て。